Rover Crew, 5th Setagaya

Rover Advisor's Essays

Dec. 2017:B-Pとシャーロック・ホームズ,そしてアインシュタイン ―観察と推論―(おまけ2)

14. 2017年ノーベル賞についての連想ゲーム

最後に,2017年の物理学賞以外のノーベル賞,すなわちノーベル生理学・医学賞,ノーベル化学賞,ノーベル平和賞,ノーベル経済学賞,ノーベル文学賞についての「強引な連想ゲーム」をしてみましょう.これらはこれまでのエッセイと関係するとともに,次のさくらのエッセイにも繋がる内容になっています.

a. ノーベル生理学・医学賞:体内時計

今年のノーベル生理学・医学賞は「概日リズムを制御する分子メカニズムの発見」に対し,ジェフリー・ホール,マイケル・ロスバッシュ,マイケル・ヤングに与えられました.

「概日リズム」とはいわゆる「体内時計」の一種です.大雑把に言えば,ホールとロスバッシュとヤングは,生物が持つ体内時計の謎に迫った功績でノーベル生理学・医学賞を受賞したのです.

体内時計の研究と本エッセイとの関係は明らかです.2017年さくら10月号11. アインシュタインの時計,B-Pの時計で書いたように,時計はアインシュタインの一般相対性理論(および特殊相対性理論)にとっても,そして腕時計を愛用したB-P(およびボーイスカウト)にとっても,重要だったのでした.

アインシュタインと時計,あるいは時間の関係は,これまで何度も紹介してきました.

2017年さくら8月号9. アインシュタインの思考実験と美意識では,アインシュタインの「特殊相対性理論においては,時間(time)と空間(space)を同じように扱うことが出来」ることに触れました.時間と空間を合わせた「時空(spacetime)」という言葉もありました.そしてこの時空の考え方をさらに発展させて,一般相対性理論では時空の歪みとして重力を考え,さらにその時空の歪みが波として伝わっていく現象を重力波と呼んだのでした.

これらの理論では,時間が常に最重要の役割を果たします.アインシュタインはずっと,時間あるいは時計について考え続けた物理学者と言っても良いのです.

ちなみに,一般相対性理論や重力波の舞台は基本的に宇宙ですが,「宇宙」という漢字の起源については興味深い説が存在します.中国語で「宇」は上下前後左右=空間3次元を表し,「宙」は過去現在未来=時間1次元を表す.したがって,「宇宙」で空間3次元+時間1次元=4次元時空を表している,という説です.

我々が普通「宇宙」と聞いてイメージするのは空の上の空間的広がりのことだと思いますが,この説を採用すれば,「宇宙」という言葉には最初から時間の広がりのイメージ,一定のリズムで時を刻む秩序=時計のイメージ,すなわちアインシュタインの(特殊/一般)相対性理論的・4次元時空的イメージが含まれていたということになります.

ところで,ある種の動物は体内時計と宇宙(天空)の情報を用いることで,自分の進むべき方角を見つけています.

それは例えば「太陽コンパス」と呼ばれます.

渡り鳥や伝書バト,ミツバチなどは,この太陽コンパスを利用していることが知られています.彼らは体内時計によって時間を計り,その時刻における太陽の位置を観ることで,方角を測っているのです.

ボーイ隊以上のスカウトなら,体内時計と太陽を使ってコンパスを作るそれら動物と同じことを,腕時計(wrist watch)を使って実現できるはずです.『スカウトハンドブック』の116ページを開いてみてください.そこには,腕時計の文字盤の中心にマッチ棒を立てて,太陽が作るマッチ棒の影と時計の短針の位置関係から方角を知る方法が載っています.

これは,上述の動物たちとやっていることは基本的に同じです.ただし,『スカウトハンドブック』に載っている方法では,体内時計よりも正確な(腕)時計を使い,システマチックに太陽コンパスを作っているのです.

なぜこの方法で方角が分かるのか,スカウトの皆には是非考えてみて欲しいと思います.なぜなら,2017年さくら9月号10. アインシュタインの重力で述べた通り,アインシュタインが「GPSを日常的に単に使う「だけ」の人間」では無かったように,スカウトの皆もスカウトハンドブックに載っている方法を単に使う「だけ」の人間では無いはずだからです.

アインシュタインは,何故そうなるのか? どういう仕組みになっているのか? ということを考える人間でした.そしてそれは,観察と推論を通してスカウトが身につけるべき心のあり方だとB-Pは考えた(と私は解釈した)のでした.

b. ノーベル化学賞:クライオ電子顕微鏡

今年のノーベル化学賞は「溶液中で生体分子を高分解能構造測定するためのクライオ電子顕微鏡の開発」に対し,ジャック・ドゥボシェ,ヨアヒム・フランク,リチャード・ヘンダーソンに与えられました.

「電子顕微鏡」については,2017年さくら5月号5. 「はかる」ことによって「みる」で紹介したことを覚えているでしょうか? 通常の光学顕微鏡が「光によって」視る顕微鏡なのに対し,電子顕微鏡は「電子によって」視る顕微鏡なのでした.

ドゥボシェとフランクとヘンダーソンは,この従来の電子顕微鏡を改良して,タンパク質やDNAなど,私たちの身体の中にある生体分子の構造解明に貢献した功績で,ノーベル化学賞を受賞したのです.

それでは,3人はどのようにして電子顕微鏡を改良したのでしょうか?

生体分子を電子顕微鏡で普通に観察しようとすると,強い電子が当たることで生体分子が「茹で上がって」しまいます.本当に知りたいのは「茹で上がる」前,生(なま)の状態の生体分子なのでこれは困ります.「茹で上がって」しまうことは,「ノイズ」なのです.そこでドゥボシェは閃きました.「そうだ,最初から冷やした状態で電子顕微鏡観察すれば良いのだ」と.

この「冷やす」ということが,「クライオ電子顕微鏡」の「クライオ」という言葉で表されています.クライオは英語で"cryo-"と書く接頭語で,「冷凍」や「低温」を意味します.ちなみに,"cryo-"の語源はギリシア語で「冷たい」を意味する"kryos"であり,水晶(クリスタル,"crystal")も同じ語源から来ています.

ドゥボシェは生体分子を冷やすために,水に生体分子が浸かった状態で凍らせることを考えました.つまり氷漬けにした状態で電子顕微鏡観察するのです.

ただし一口に「氷」と言っても,氷の中には「濁った氷」と「透明な氷」があります.自宅で作る氷は濁っていることが多いですが,お店でジュースなんかを頼んだ時にコップに入っている氷は透明なことがありますね.

電子顕微鏡観察する場合には,氷は透明でなければなりません.濁っていると,見たいのは生体分子なのに邪魔されてしまうからです.つまり,氷の濁りもまたノイズなのです.

そこでドゥボシェは,生体分子を「透明な」氷漬けにするために,急速冷凍という手法で水を「ガラス化」して凍らせることを思いつきました.

水の「ガラス化」とはどういうことか.急速冷凍すると何故ガラス化するのか.ガラス化しているとなぜ透明になるのか.本エッセイ1回分の文字数が必要になるのでここでは説明しませんが,「水(の様々な状態)」や「ガラス(化)」は大昔から知られている対象でありながら,2017年の今現在も物理学的研究が盛り上がっている分野であり,古くて新しい問題だということを言っておきます.

さて,生体分子を冷やして電子で観察すれば,クライオ電子顕微鏡は完成でしょうか?「クライオ電子顕微鏡」という名前からするとそれで完成のような気がしますが,実際はそうではありません.2017年のノーベル化学賞の授賞理由は「溶液中で生体分子を高分解能構造測定するためのクライオ電子顕微鏡の開発」でしたが,「高分解能構造測定」,すなわち「超細かくどうなっているか測る」ことを実現するためには,まだステップが必要なのです.

生体分子の構造がどうなっているか,「超細かく」知るためには生体分子の3D像(3次元像)が必要です.3D像とは,つまり普通の写真のような2D(2次元像)=1枚の絵ではなく,プラモデルのような立体模型の情報ということです.

しかし,電子顕微鏡で撮影する写真は普通の写真と同じ2Dであって,3D像を撮ることは出来ません.どうすればいいのでしょうか?

そこで,2017年ノーベル化学賞2人目の受賞者の登場です.フランクはこう考えました.「電子顕微鏡で大量の2D像を撮って,それらを合体させて3D像を推測すれば良いのだ」と.

これは,スカウトの皆さんも頭の中でやっていることです.立体物を正面と側面と上面から撮影した写真を3枚見れば,皆さんはそれが実際にどのような3次元の形をしているのか,おおよそ頭の中で構成することが出来ますね?

フランクが考えた方法も基本的にこれと同じです.ただし,使う2D写真の数は何千何万という膨大な数です.

このような膨大な数の2D像から上手に3D像を再構成する方法を,フランクは作り上げました.これは2D像から3D像を「推察する」手法と言えます.

それはコンピュータを使った,今で言う「ビッグデータ分析」の推察手法・推論手法です.あるいは,「画像処理」と呼ばれる数学的な推察手法・推論手法です.つまり,膨大な数の2D像から上手く推察・推論することで,邪魔なノイズを除いて,知りたい3D像を構成するのです.

ノーベル化学賞受賞者であるフランクが具体的にやったことは,数学的手法を用いたビッグデータ分析・画像処理アルゴリズムを作り出すことでした.ノーベル化学賞が授与された仕事であるにも関わらず,その中身はプログラマーの仕事のような内容だったのです.

最後のノーベル化学賞受賞者ヘンダーソンは,電子顕微鏡による生体分子観察の黎明期に,バクテリオロドプシというタンパク質の詳細な構造を電子顕微鏡にって決定し,世界に衝撃を与えました.ヘンダーソンのこの仕事によって,クライオ電子顕微鏡は従来の方法に迫るくらいの精密さで生体分子の構造を調べられることが証明されたのです.

ヘンダーソンは,クライオ電子顕微鏡によるバクテリオロドプシの観察に15年間試行錯誤したそうです.

ヘンダーソンは元々X線結晶解析の専門家でした.上述の「従来の方法」とはX線結晶解析のことです.2017年さくら5月号5. 「はかる」ことによって「みる」でX線を用いたレントゲン撮影の話をしましたが,X線結晶解析はレントゲン撮影とは別の,X線を用いた「観る」方法です.しかも,人類がこれまで手にした「小さなものを観る方法」の中でも飛び切り優れた方法です.

X線結晶解析の確立に貢献したノーベル賞受賞者は多く,1914年ノーベル物理学賞のマックス・フォン・ラウエ,続く1915年ノーベル物理学賞のヘンリー・ブラッグおよびローレンス・ブラッグ親子,そして1936年ノーベル化学賞のピーター・デバイなどがいます.

X線結晶解析は強力な観察手法です.実際,金属や生体分子などを問わず,非常に多くの物質の構造がX線結晶解析によって解明されてきました.20世紀はX線結晶解析の時代と言っても過言ではないくらいです.

しかし,X線結晶解析にも弱点はあります.X線「結晶」解析という名前からも分かる通り,観る対象が「結晶」でなければならないのです.

それに対して今回のノーベル化学賞のクライオ電子顕微鏡法が素晴らしかったのは,結晶でなくても構造を調べることが出来る点なのです.すなわち,クライオ電子顕微鏡の開発によって,X線結晶解析などの「従来の方法」(他の「従来の方法」もあります.例えばNMRなど)に加える形で,人類は「新たな眼」を手に入れたことになります.

そう,重力波やニュートリノが天文学における「新たな眼」となったのと同じなのです.

2017年のノーベル化学賞は,以上で見たように,新しい物質や新しい現象の発見にでは無く,物質を観るための新しい方法に与えられました.天文学における重力波(やニュートリノ)が「大きくて遠いものを観るための眼」だとすれば,クライオ電子顕微鏡(やX線結晶解析)は「小さくて近いものを観るための眼」です.ノーベル物理学賞やノーベル化学賞,そしてノーベル生理学・医学賞も,実は「観るための新しい方法」に何度も与えられているのです.

wikipediaで各ノーベル賞の歴代タイトルだけでもこの観点で眺めてみると面白いでしょう.観察,および新しい観察手段を発見するための推論がいかに大事であるか,しみじみと感じることが出来るはずです.

c. ノーベル平和賞:核兵器廃絶国際キャンペーン

今年のノーベル平和賞は,「核兵器廃絶国際キャンペーン」に与えられました.ICANという名前のNGO団体です.

核兵器とは,広島・長崎に落とされた原子爆弾の他,水素爆弾なども含む,「核分裂反応」あるいは「核融合反応」を利用して強いエネルギーを生み出す兵器のことです.ICANは2007年以降,このような核兵器の廃絶運動を展開しています.

ノーベル平和賞は,ノーベル自然科学賞3賞(物理学賞,生理学・医学賞,化学賞)と比べて,授賞対象の選定が極めて政治的に,かついかにも安直に行われる傾向があります.

「ノーベル平和賞が政治的に決められる」こと自体は別に構わないと私は思うのですが,科学者が何年何十年も研究を続け,重力波は発見から受賞まで早かったですが,普通は成果が出た後も何年何十年と受賞を待たされるノーベル自然科学賞に比べたとき,黒人初の米大統領になっただけで受賞したバラク・オバマや(「『核なき世界』に向けた国際社会への働きかけ」に対して受賞したことになっていますが,これにしても米大統領就任直後に演説した「だけ」です),北朝鮮の核兵器問題が大きくなってきたから受賞した今回のICANなど,授賞判断が「軽い」という印象があるのが正直なところです.

ノーベル平和賞に対し批判的なことを書きましたが,もちろんこれは受賞者・受賞団体自体を批判するものではありません.ICANの「核兵器廃絶」という理念は,実践的にはやり方に様々な難しさがあるものの,理念自体当たり前に正しいでしょう.

さて,「核兵器廃絶」というICANの理念.実はこのような理念を最初に世界に示した人物を,スカウトの皆はすでに知っています.

その人物は,核兵器という「実践」に対する物理学的「理論」を作り,第二次世界大戦中の1939年,当時の米大統領フランクリン・ルーズベルトに原子爆弾の危険性・重要性を訴える手紙を書き,そのことが広島・長崎への原子爆弾投下の原因となってしまったことを戦後強く後悔しました.

その人物とは,アルベルト・アインシュタインです.

1955年,アインシュタインとバートランド・ラッセルの2人が中心となって,当時の一流科学者との連名で,「ラッセル=アインシュタイン宣言」が発表されました.日本からは湯川秀樹が参加したこの連名は全部で11名.そのうち10名はノーベル賞受賞者です.

その内容は「核兵器の廃絶と科学技術の平和利用を訴える宣言文」で,本エッセイの言葉で抽象化すれば,「理論に対する実践の暴走を抑止する宣言文」と言っても良いでしょう.

核兵器という実践に対する物理理論は,アインシュタインの特殊相対性理論です.ですから,アインシュタインは「核兵器の産みの親」とも言える.実際,アインシュタインは核兵器の登場に深く悩んだのです.

もちろん,「アインシュタインの理論自体が悪いのでは無い.理論の実践において悪用する人間が悪いのだ」と素朴に言うことは出来ますが,核兵器という実践はあまりに影響が大きいので,このような素朴な物言いでは済まないところがあるのです.

ここには,理論と実践の関係における,深くて暗い倫理的問題が横たわっています.

ところで,ラッセル=アインシュタイン宣言のもう1人の主役,ラッセルとはどのような人物でしょうか.

1872年生まれのイギリス人であるラッセルは,ラッセル=アインシュタイン宣言の5年前,1950年にノーベル文学賞を受賞しています.ということはラッセルは文学者なのでしょうか?

ラッセルを「文学者」と考える人は,あまり多くないと思います.人によってラッセルのイメージは大きく異なりますが,私のイメージでは,ラッセルはまず第一に数学者,それに論理学者・哲学者のイメージが続きます.別の人は,ラッセルを政治運動家ないし社会思想家として記憶しています.もしかしたら平和活動家や教育者や心理学者としてのイメージを強く持っている人もいるかもしれません.

ラッセルは万能の天才だったのです.

ここでラッセルの業績を全て紹介することはもちろん出来ませんが,本エッセイと関係深いものを1つ紹介しましょう.それは「数学の基礎付け」への貢献です.

2017年さくら7月号7. 数学の自由で,数学者ブールによるコンピュータの理論=ブール代数と,現代数学の父ヒルベルトによる数学の自由の追求=形式主義を紹介しました.実は,ラッセルの数学上の仕事はこれらと深く関係しています.

ラッセルは,「アリストテレス以来最大の論理学者」と呼ばれます(アリストテレスは例の三段論法を整備した,古代ギリシアの哲学者・論理学者です).そんなラッセルは,19世紀末から20世紀初頭にかけて,つまりB-Pの『Scouting for Boys』連載開始の少し前,あるいはアインシュタインが大活躍を始める直前,論理学によって数学という学問自体を基礎付けようとしていました.

その中で,ラッセルはあるパラドックスを発見します.そのパラドックスは,数学という学問の根幹を揺るがす大問題でした.実はこのパラドックスをラッセルから教わったことが,ヒルベルトを形式主義の構築へ向かわせたのです.このパラドックスは「ラッセルのパラドックス」と呼ばれています.

ラッセルのパラドックスがどういうものか,詳しい説明は例によって難しいのですが,それは「自己言及のパラドックス」あるいは「嘘つきのパラドックス」の一種と言うことは出来ます.「自己言及のパラドックス」あるいは「嘘つきのパラドックス」とは次のようなものです.

「この文章は嘘だ」

上の文章は嘘でしょうか? それとも本当でしょうか? ちょっと考えれば,上の文章が嘘でも本当でも矛盾が生じることが分かります(考えてみてください).これが嘘つきのパラドックスです.

なぜこのような矛盾が発生したか.それは上の文章が「この文章」という形で自分自身のことについて語っているからです.これを,「己れ自らについて言い及ぶ」ということで「自己言及」と言います.だから,嘘つきのパラドックスは自己言及のパラドックスです.

ラッセルは数学の中にもこのような自己言及のパラドックスがあることに気付きました.それがラッセルのパラドックスなのです.

20世紀前半,ラッセルやヒルベルトといった天才数学者たちが,こぞって数学の基礎付けについて研究しました.そのような「数学についての数学」とでも言うべきジャンルを「数学基礎論」といいます.ラッセルのパラドックスは数学基礎論において最大級の関心事でした.

ラッセルは,1910年から1913年にかけて出版されたアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドとの共著『プリンキピア・マテマティカ(Principia Mathematica,数学原理)』で,「階型理論」と呼ばれる理論を発表し,ラッセルのパラドックスの解決を含む数学の基礎付けを与えました.

この著作のタイトル,どこかで見ましたね? 2017年さくら8月号8. ニュートンと数理物理学(=数学+物理学?)で紹介したニュートンの主著,『プリンキピア(Philosophia Naturalis Principia Mathematica,自然哲学の数学的諸原理)』です.ラッセル(およびホワイトヘッド)の本のタイトルがニュートンへのオマージュになっていることは明らかです.

数学基礎論はその後どうなったのでしょうか?

実は『プリンキピア・マテマティカ』には,数学の基礎付けに関する未解決の謎が残っていました.その謎を解決し,数学の基礎付けを完全なものにしようという企てはヒルベルトによって提案され,「ヒルベルト・プログラム」と呼ばれました.

そして1931年,数学者クルト・ゲーデルによって,「ヒルベルト・プログラムは上手くいかない」ということが数学的に証明される,という衝撃的な報告がされました.そこで証明された定理は「ゲーデルの不完全性定理」と呼ばれます(詳しくは数学的に難解です).名前くらいは聞いたことのあるスカウトがいるのではないでしょうか? 20世紀の人類の知的活動において,最高の成果と考える人も多い数学定理です(ちなみにゲーデルは,アインシュタインの一般相対性理論に対する貢献もしています.それは「ゲーデル解」と言われます.ゲーデルもまた天才だったのですね).

一般向けの解説書などでは,「ゲーデルの不完全性定理は理性の限界を示した」という風によく書かれています.本エッセイの言葉で言えば,「ゲーデルの不完全性定理は推論の限界を示した」つまり「この世のあらゆることは,推論をきちんとやっていけば,原理的には明らかに出来る,かと思いきやそうでは無かった」ということです.「理性や推論は実は不完全」という意味で「不完全性定理」なのだ,というわけです.

ゲーデルの不完全性定理の以上のような雑な説明・雑な理解は,実際の定理の数学的内容を理解出来ていない人間の戯言だという批判があります.理系学者が文系学者を批判するときのネタによく使われます.ですから,このような雑な説明・雑な理解には十分に警戒しなければなりません.ゲーデルの不完全性定理を無闇に「神聖視」してはいけないのです.

しかし上記の但し書きの下で言えば,ゲーデルの不完全性定理が哲学その他の学問に対して,理性の限界や推論の限界についての思考に関して強い影響を与えたことは確かです.そもそも,2017年さくら10月号11. アインシュタインの時計,B-Pの時計で紹介したカントから始まる近代哲学と,それに続く現代哲学とは,理性の限界・推論の限界ばかりを問題にしてきたとも言えるのです.

カントの主著は『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』の3つですが(「三批判書」と呼ばれます),この「批判(独語:kritik,英語:critique)」という言葉は,ゲーデルの「不完全」という言葉と響き合っているのです.

ちなみに,『純粋理性批判』の英語は"Critique of Pure Reason"です.「理性」の英語訳は"reason"なわけですが,2017年さくら3月号1. B-Pとシャーロック・ホームズの冒頭で述べたように,「推理」の英語訳が"reasoning"であったことを思い出すと,これらの話は実はホームズの推理やホームズの科学捜査,そしてホームズシリーズが発表された時代の雰囲気とも無関係では無いことが分かります.

カントの批判から始まった近代哲学は,ラッセルやヒルベルトやゲーデルの数学基礎論とも響き合いながら,現代哲学や社会学・心理学など,20世紀の様々な学問に流れ込みました.

そして,理性の限界・推論の限界に関わるこの一連の流れのキーワードこそが「自己言及」です.

例えば原子力発電所の是否(まさに「核」の問題!)についての議論で有名なドイツ人社会学者ウルリッヒ・ベックは,「再帰的近代」という言葉を提案しました.ベックの「再帰的」という言葉は,「自己言及」と同じような意味です.

例えばジークムント・フロイトの理論を発展させたフランス人精神分析家・心理学者のジャック・ラカンは,最初期の推理小説家エドガー・アラン・ポーの『盗まれた手紙』を読解する中で,「認識の穴」について分析しています.認識の穴とはすなわち「盲点」のことであり,つまり理性の限界・推論の限界と関連しています.ラカンやポーについては,次回以降のエッセイでまた触れることになるでしょう.

例えば2017年さくら7月号7. 数学の自由で名前だけ紹介したフランス人哲学者のジャック・デリダは,ラカンの「盲点」,つまり理性の限界・推論の限界を乗り越えるための新しい思考法を考えました.それは7. 数学の自由で述べた,不思議の国のアリス的あるいはジェイムズ・ジョイス的言葉遊びと関係しており,「脱構築(deconstruction)」と呼ばれています("deconstruction"という言葉自体が,"destruction(解体)"と"construction(構築)"の2つのかばん語(混成語)になっています).あるいはもっと明確に(そして発展させる形で),哲学者の東浩紀はその思考法を「郵便的思考」と名付けました.

以上の例以外にも,絵画や音楽,そして人工知能研究(AI)などで自己言及は重要な役割を果たしています.20世紀の様々な知的活動は,自己言及という言葉の重力の下に展開されたと言っても良いでしょう.

ノーベル平和賞の話からラッセルを経由して,自己言及あるいは理性の限界・推論の限界について話してきました.これは一見ただの連想ゲームに見えるかもしれませんが,そうではありません.

スカウトの皆は「なぜ世界は平和にならないのだろうか?」という素朴な疑問を持っていませんか? その答えの1つは,まさに以上で示してきた理性の限界・推論の限界にあります.

この限界を,自己言及をキーワードにして突破すること,あるいは迂回することが,20世紀から21世紀にかけて世界中のモノを考える人間がやっていることです.つまり,自己言及や理性の限界・推論の限界を考えることは,平和を考えること,すなわち遠く政治に繋がっているのです.

しかも,人々の「感情」をどう考えるかが重要になってきている近年,上記の20世紀に発展した認識は議論のベースとなっているのです.

最後に「幻のノーベル平和賞」の話をしましょう.

ノーベル賞は1901年に初めて授与が行われて以降,基本的に毎年受賞者を選んでいます.しかし,いくつかの理由で受賞者がいない年があります.その中でも,第一次世界大戦および第二次世界大戦の間,ノーベル賞は数年間に渡って停止されました.停止の期間は賞によって若干違うのですが,ノーベル平和賞は1939年から1943年にかけての5年間与えられていないのです.

実は,1939年のノーベル平和賞では受賞者自体は決まっていました.ところが第二次世界大戦が勃発したために,賞自体が取り消されたのです.

第二次世界大戦さえなければノーベル平和賞を受賞していた人物,それはB-Pでした.

軍人であったB-Pのノーベル平和賞が戦争の勃発によって取り消される.このこと自体が自己言及的,すなわち皮肉(アイロニー)と言えるでしょう.

ボーイスカウト活動は軍隊をモデルにしています.そしてボーイスカウト活動は平和の構築を目的としています.このことの意味を,一度深く考えてみても良いかもしれません.

d. ノーベル経済学賞:行動経済学

今年のノーベル経済学賞は,「行動経済学に関する功績」に対し,リチャード・セイラーに与えられました.行動経済学は,数学モデルによって記述される従来の経済学と心理学とを融合させた学問です.

例によって雑に述べます.従来の経済学では,経済活動に関して人間は理性的すなわち合理的に振る舞うと考えていました.それに対して行動経済学では,人間が時に理性的にではなく感情的に振る舞うことを心理学の知見を活かして考慮します.

しかしこのような行動経済学の特徴は,実は経済学の父と呼ばれるイギリス人哲学者・経済学者のアダム・スミスが既に考えていたとも言えます(実際,スミスを行動経済学的に捉え直す研究が近年見られます).

スミスは1776年に『国富論』を書いたことで近代経済学に端緒を開きましたが,その17年前に『道徳感情論』を著しています.経済をうまく回すためには,人間の「道徳感情」が重要なパラメータになるとスミスは考えていたのです(有名な「神の見えざる手」は,個々人が利己的に経済活動をすれば市場は全体として上手く回ることを言っている,という単純な理解がかつて良く見られましたが,そうでは無いのです).

以上のように説明すると,行動経済学の背後にはノーベル平和賞のパートで説明した「20世紀に発展した認識」が深く関係しているらしいということが想像できます.さらに抽象化して言えば,それは「理性と感情」の融合です.そして,次回以降のエッセイでは「科学と詩」というタイトルでこの融合を考えていきたいと思っています.

しかし,ここではこの辺でやめておきましょう.

e. ノーベル文学賞:カズオ・イシグロ

今年のノーベル文学賞は,カズオ・イシグロに与えられました.日本でもかなり話題になっています.

本エッセイとの関係では,イシグロが長崎出身であり,長篇デビュー作『遠い山なみの光』で原爆を投下された長崎が出てくることが指摘できます.あるいは,イシグロの父が優秀な科学者(海洋学者)であったことは,次回以降のエッセイで,タイトルを「科学と詩」にすることや,B-Pの父が著名な数学者であった(!)ことについて考える予定であることと弱くシンクロしています.

しかし,ここではイシグロの作風について指摘したいと思います.

イシグロの作品の中で最も人気があるのは,『わたしを離さないで』でしょう.日本では舞台化やドラマ化もされています.この作品についての,ノーベル文学賞選考委員によるコメントは以下の通りです.

"With the dystopian work Never Let Me Go (2005), Ishiguro introduced a cold undercurrent of science fiction into his work."
「ディストピア小説『わたしを離さないで』(2005)で,イシグロはSFの冷たい下層流を導入した」

イシグロが「SF的想像力」をこの作品に入れ込んだことは,次回以降のエッセイに繋がります.このことは,2017年さくら10月号12. 重力波によって宇宙を観ることで紹介したように,今年のノーベル物理学賞受賞者のキップ・ソーンが映画監督クリストファー・ノーランと共にSF映画『インターステラー』を製作していることなどと合わせて,「科学と詩」,まさに"Science Fiction","Science Fantasy"の問題として,やはり次回以降で展開したいと思っています.

ところで文学においても,ノーベル平和賞パートで説明した自己言及が重要な役割を果たします.特に近代以降の文学はそうです.

文学(文章)と自己言及の関わりについては,上で述べた「嘘つきのパラドックス」が1つの例になっていますが,もっと身近な例として次の文章を考えてみましょう.

「世界は愛で出来ている」

内容の客観性は脇に置くとして,この文章は客観的な文体で書かれています.では,次の文章はどうでしょうか?

「世界は愛で出来ているのだ」

語尾が「のだ」に変わっただけで,文章の客観性が失われて,この文章を書いた人間の意志が前面に出てきます.つまり,「世界が愛で出来ている,と自分に言い聞かせている」というニュアンスになるのです.さらに次の文章はどうでしょうか?

「世界は愛で出来ている.なんちゃって」

最後に「なんちゃって」を加えると,文章の客観性はさらに失われます.それどころか,前半の「世界は愛で出来ている」を冗談にしています.いや,単に冗談にしているというよりも,書いた人間は「世界が愛で出来ている」と本気で思っているかもしれないけれども,照れ隠しに後半の「なんちゃって」を付け加えているように読めます.あるいは,書いた人間自身が「世界が愛で出来ている」ということについて半信半疑なのかもしれません.

このような文章の効果は,自分自身への「ツッコミ」によって発生しています.これが文章における自己言及の効果の1つです.お笑いの(ボケに対する)ツッコミも同じ構造を持っています.

文章で自身にツッコミを入れるときに,括弧()を使うことがあります.つまり次のような使い方です.

「世界は愛で出来ている(なんちゃって)」

しつこく書くとしたら,次のようになるでしょう.

「世界は愛で出来ている(何くさいこと言っているんだ俺は(笑))」

このような,表の文章とそれに対する裏のツッコミの複雑な関係は,「内面の発見」と呼ばれる近代文学の特徴です.2017年さくら10月号のローバー隊廣畑君の文章:文学部とボーイスカウトでは「タテマエ」と「ホンネ」と呼ばれていたものです.我々近代人・現代人は,タテマエとホンネのある種のバランスを取った行動をとることが必要なのです.

以上のことは,哲学の世界では例えば「コンスタティブ」と「パフォーマティブ」という言葉で研究されています.特に20世紀後半には,上記の哲学者デリダと,言語行為論と呼ばれる学問の一派を形成していた英米の哲学者たちの間で,このことが盛んに議論されました.そしてこのような議論は,我々の日常的なコミュニケーションについて重要な知見を与えてくれるものになっているのです.

2017年日本公開された,カナダ人映画監督のドゥニ・ヴィルヌーヴのSF映画『メッセージ』は,アカデミー音響編集賞を受賞するなど話題になりました.この映画の主題は,実は上で書いたような言語とコミュニケーション,そして世界の捉え方の問題でした.

実際,中国系アメリカ人の小説家テッド・チャンが書いた『メッセージ』の原作SF小説『あなたの人生の物語』には,言語行為論(speech act theory)という言葉が出てくるのです(ただし,上で登場した哲学者の東が指摘したように,原著には確かに"speech act theory"という言葉が出てきますが,それの日本語訳は「言語行為論」にはなっていません).

興味のあるスカウトは,ぜひ原作小説を読んで,あるいは映画を「鑑賞」して,現代の文学者や哲学者がコミュニケーションや世界の見方を今どのように考え,更新しようとしているのかを感じ取ってください.

以上,物理学賞以外の2017年ノーベル賞についての「強引な連想ゲーム」でした.…やはり「強引」だったでしょうか?

実はある種の文系の書き物(「批評」と呼ばれたりします)やSFは,このような「連想ゲーム」を一見「強引」で無いかのように見せかける知的活動だ,と言うことが出来ます.

批評においては,連想ゲームは「言葉遊び」によって行われます.SFにおいては,連想ゲームは「科学的妄想」によって行われます.そして,「ゲーム」=「遊び」や「妄想」であるにも関わらず,それが「強引」に見えないように表現することが,批評やSFを作るプロフェッショナルの「上手さ」なのです(このエッセイが上手かったかどうかは大変心許ないですが).

このような知的活動を「無意味だ」・「そんなもの知的では無い」と感じる人は少なくない.それどころか,そのような人は近年ますます増えているようです.しかし,以上のような「ゲーム的な」知的活動は,科学的・客観的事実とは独立した,人間にとっての「価値」を産み出す活動としてポジティブに捉えるべきです.しかもその上で,科学的・客観的知識とのバランスを取っていくことが,本当は必要なことなのだと私は思っています.

ゲーム的思考と科学的思考,文系的思考と理系的思考,主観と客観,価値と手段,この両方が無いと,例えば古典は読めません.どちらが欠けても,古典は我々の生活と無関係の「骨董品」になってしまうのです.

ですから『Scouting for Boys』についてもこのバランスに気をつけて,B-Pを現代に活き活きとした姿で蘇らせるように読んで欲しいと思います.

(おわり)

ローバー隊隊長 渡口要