Rover Crew, 5th Setagaya

Rover Advisor's Essays

Jun. 2018:科学と詩 第7回

8. Action integral & Variational principle

『あなたの人生の物語』の本筋は,女性言語学者ルイーズを主人公とした言語学SFです.特に映画版の『メッセージ』ではヘプタポッドの表義文字が“wonderful”に映像化されているので,言語学要素の印象がかなり強い.しかし原作小説では,それと同じくらいに物理学要素が目立ちます.

この作品の物理学SFとしてのポイントは,ヘプタポッドの物理や数学の理解が,人類とは真逆になっていることにあります.人類が「能動態(≒受動態)的数式」によって物理や数学(つまり世界や宇宙)を理解しているとすれば,ヘプタポッドは「中動態的数式」によって世界や宇宙を理解している.それは作中では,微分と積分に対する見方が人類とは逆であることに表れています.あるいは,物理の法則を「微分方程式(differential equation)」で書くことを人類は基本的だと考えるのに対し,ヘプタポッドは「変分原理(variational principle)」で書くことを基本的だと考えることに表れています.

どういうことでしょうか?

微分方程式とは何か? 変分原理とは何か? 100%説明することはここでは出来ませんが,人類とヘプタポッドの世界観の違いに関わる部分を抽象的に解説することはかろうじて出来るかもしれません.実際それは,原作小説の中では「光の屈折」を例にして行われています.

以下では微分方程式および変分原理の抽象的な解説を行い,この物理学的なイメージが前回までの様々な対応関係を補強することを示したいと思います.

8.1. 人間の微分方程式

微分方程式を作ったのはだれか? その人物を,皆さんはよく知っているはずです.推論の天才であり,物理学者かつ数学者=数理物理学者であり,重力の理論を作った人物.このさくらには何度も何度も登場している男,アイザック・ニュートンです.

2017年さくら8月号8. ニュートンと数理物理学(=数学+物理学?)で,「微分と積分は,ニュートンがりんごや月の動きを上手く表現したり計算したりするために編み出した」と書きました.

大雑把に言いますと,微分とは「超細かく分ける」こと.積分とは「分かれたものをかき集めて足す」ことです.微分=「微か(かすか)な部分に分ける.積分=「分かれた部分を積みあげる」というわけです.この説明から推測できると思いますが,微分と積分はお互いに逆の関係になっています.足し算(+)と引き算(-),あるいは掛け算(×)と割り算(÷)が逆の関係になっているのと似たようなものです.

このような微分積分ですが,ではニュートンはどうやって「微分」や「積分」を使い「動き」を表現したり計算したりしたのか? その答えが「微分方程式」です.

それは次のような具合です.2017年さくら8月号8. ニュートンと数理物理学(=数学+物理学?)で出した「野球のボールが飛んでいく」例を再登場させましょう.

バットでボールを打った瞬間,ボールには主に2つの力が加わっています.バットから受ける力と,ボールにかかる重力です.本当は空気抵抗も無視できないのですが,ここでは話を簡単にするため無視します(「話を簡単にする」ということ以上に,ここで言いたいこと=本質にとって「空気抵抗を無視する」ことは許される,というのが重要です.このようなとき,科学者はよく「簡単のため(for simplicity)」と言います).

さて,このボールが「次の瞬間」,例えば0.1秒後にどこにどんなスピードで存在するか,皆さんもなんとなく予想できますよね? バットでボールを打ったときの角度や,スイングのスピードなどから,「次の瞬間」ボールがどの方向にどれくらいのスピードで動くか,だいたい感覚的に分かるはずです.野球選手であれば,そのボールの落下地点もある程度予測できるでしょう.イチローのような名選手ともなれば,視覚情報以外に打球音なども参考にして,落下地点に素早く回り込むことが出来ます.

「動き」の微分方程式による表現および計算において重要なのは,「次の瞬間」の意味です.微分方程式における「次の瞬間」は,0.1秒後でも0.01秒後でも0.000000000000000001秒後でもありません.0.000000…の「0」を無限に続ける操作の先の刹那,数学用語で「極限」と呼ばれる考え方によって,「次の瞬間」は定義されます.そしてこのような操作や考え方のことを微分(=超細かく分ける)と呼び,微分を使った方程式を微分方程式と呼ぶわけです.

バットでボールを打った瞬間にボールに加わっている力の情報を使って,「次の瞬間」のボールの状態(位置とスピード)を予測することが,微分方程式を使うと可能になります.先ほど「皆さんもなんとなく予想できますよね?」と書きましたが,その予想を物理学的な予測のレベルにまで正確にするのが,微分方程式の力です.この微分方程式を解くことで,2017年さくら8月号8. ニュートンと数理物理学(=数学+物理学?)でも紹介した,次の驚くべき事実が導かれるのです.

野球のボールだろうと大砲の弾だろうと,「放り投げた物」は2次関数の軌跡を描いて運動する

同じく2017年さくら8月号8. ニュートンと数理物理学(=数学+物理学?)で紹介した「ニュートンの運動の理論」は、3つの法則から作られています.中でもその第2法則は「ニュートンの運動方程式」と呼ばれています.このニュートンの運動方程式が,実は人類史上最初期の微分方程式なのです.

2017年さくら8月号8. ニュートンと数理物理学(=数学+物理学?)では「ニュートンだけが微積分学の創始者というわけではありません.微積分学成立の歴史についてここでは詳細を省きますが,少なくともゴットフリート・ライプニッツも微積分学を確立した1人とみなされています」と書きました.微分と積分については,ニュートンとライプニッツがそれぞれ独立に作ったというのが定説です.

では,微分方程式は作ったのは誰でしょうか?

微分方程式の発見者が誰かという問題に関して,以下のような面白い手紙が残っています.ニュートンが1676年にライバルのライプニッツに送った暗号文です.

aaaaaa cc d a eeeeeeeeeeeeee ff iiiiiii lll nnnnnnnnn oooo qqqq rr ssss ttttttttt vvvvvvvvvvvv x

この暗号は,暗号技術の専門用語で言う所の「鍵」が無いので,ライプニッツに解読することは出来ません.2018年さくら6月号7. Semagramでクイズを通して説明したように,漢字のような表語文字と違ってアルファベットは表音文字なので,語順が変わると解読は困難です.

アルファベットを適切に並べ替えると,上の暗号は次のようなラテン語の文章になります.

Data aqvatione qvotcvnqve flventes qvantitates involvente flvxiones invenire, et vice versa.
いくつかの流量をふくむ方程式か゛与えられているとき,流率を求めること,また逆に流率から流量を求めること.

数学者の遠山啓の著書『数学入門(下)』によると,「流量から流率をもとめるのは微分て゛あり,逆に流率から流量をもとめることは微分方程式を解くこと」です(ニュートンは微分を「流率」と呼びました.微積分学のことを「流率法」と言うことがあります).つまり,ニュートンはこの暗号文を送っておくことで,微分方程式を発見・発明したのは自分であることを,ライバルのライプニッツに内容を知られることなく証拠として残したのです.

ちなみに,2017年さくら9月号10. アインシュタインの重力でも「(一般相対性理論についての)ヒルベルト-アインシュタイン先取権論争の遅ればせながらの判定」を紹介しました.この手の「誰が最初に発見・発明したのか」という論争は,科学の世界では珍しくないのです.

微分方程式であるニュートンの運動方程式を解けば,ボールの動きを予測することができます.そのとき,ボールの「位置」が先の暗号文で言う所の「流量」に,「スピード」が「流率」に相当するわけです.

ところで,微分や微分方程式の話が続いていますが,「積分」はどこにいったのでしょうか? 実は,微分方程式を「解く」ときに積分が使われます.なぜなら既に説明したように,「微分と積分はお互いに逆の関係」だからです.先の暗号文の中に次のような文章がありました.

流率を求めること,また「逆に」流率から流量を求めること

この「逆」と微分積分の「逆」は,実は同様の「逆さ」なのです.つまり,流量から流率を求めることが微分,「逆に」流率から流量を求めることは微分方程式を解くこと=積分をすることなのです(理系なら大学生になると,色々なタイプの微分方程式を解くための様々なテクニックを勉強します.そうすると,ここで言っていることの意味がもう少し具体的に理解できるでしょう).

「この瞬間」のボールの位置とスピードとボールに働く力を使って「次の瞬間」のボールの状態を予測する微分方程式.それを積分によって解くことは,「次の瞬間」を無限に積み重ねることであらゆる時間のボールの位置,すなわち運動の様子を導き出す,ということです.

この説明から分かるのは,微分方程式による運動の表現が「逐次的」で「因果律的」ということです.この「逐次的」・「因果律的」という単語は,それぞれの対としての「同時的」・「目的論的」という単語とセットで,『あなたの人生の物語』では頻繁に登場します.前者が人間の世界認識で,後者がヘプタポッドの世界認識です.

また,2018年さくら5月号6. Middle voice2018年さくら6月号7. Semagramの単語を使えば,微分方程式は「プログラミング的」で「時間順序的」で「論理的」でもあります.つまり過去から未来に向かって順番に1個ずつ(1行ずつ),というわけです.そうであるから,能動的で合理的で主体性を重んじる人類(近代市民)の物理学者は,物理法則を表すのに微分方程式を使うのです.微分は能動態なのです.

では,ヘプタポッドはどうやって物理法則を表すのでしょうか? 人類とは「逆の」方法を使うのであれば,微分方程式ならぬ積分方程式を使うのでしょうか?

積分方程式というのは確かにあります.微分方程式で書かれた物理法則は多くのばあい積分方程式で書くことが可能なのです.そして『あなたの人生の物語』の以下の記述を読めば分かる通り,微分よりは積分の方がヘプタポッドの世界観に近いことは確かです.

ヘプタポッドの物理学体系は実際にわれわれのとはあべこべであったらしい.積分学を用いるものと人類が定義した種々の物理的属性は,ヘプタポッドにとっては基本的なものであるように思えた.
たとえば速度のような,人類は初歩的なものと考えている属性について,ヘプタポッドは,ゲーリーの断言したところによると,“ぜんぜん変てこな”数学を用いているそうだ.

ここで言う「速度」は「微分法を用いるものと人類が定義した物理的属性」です.それが「ぜんぜん変てこな」数学で表されるのに対して,「積分法を用いるものと人類が定義した種々の物理的属性」はヘプタポッドにとって「基本的」なのです.

しかし,この作品には次のような記述もあります.

フェルマーの原理が最初の突破口になったというのは妙な話でね.これは,いくら説明は容易だといっても,数学的に記述するには計算法が必要になる.それも,通常の計算法じゃない.微分法が必要なんだ.われわれは幾何か代数の単純な定理が突破口になるだろうと考えていた

ここから分かるのは,ヘプタポッドにとっては「幾何か代数の単純な定理」よりも「微分法」の方が基本的だということです.先ほどの引用と合わせると,ヘプタポッドにとっての難しさは,幾何か代数の単純な定理>微分>積分,という順番になっている.これは,人類とは真逆の順番なのです(具体的には,学校で習う順番が逆です).

ところが,微分(方程式)が能動態だとすれば,その逆の積分(方程式)は受動態です.したがって,積分(方程式)は真の対立項である中動態には相当しません.ヘプタポッドの世界観は中動態でしたから,ここでの順番の中にヘプタポッドの真の世界観は無いのです.

では,中動態に対応する数学は何か? 私の考えでは,それが「変分(原理)」なのです.

*ここからが本題ですが,長くなってしまったので,次回に持越します.

(つづく)

ローバー隊隊長 渡口要