Rover Crew, 5th Setagaya

Rover Advisor's Essays

Sep. 2018:科学と詩 第9回

10. Emulsion

「科学と詩」と銘打った今回のエッセイは,次回で第1部を終えます.第1部は「理論編」とでも言うべき内容でした.そこで,ここまで展開されてきた理論を改めて整理し,2018年さくら1月号科学と詩 第1回の冒頭で述べた目標に対する1つの結論を出しましょう.つまり,科学と詩の「相容れない感じ」を少しでも消し,両者の融合を目指す,あるいは「捏造する」という目標です.

10.1. 「科学↔詩」×「能動態↔中動態」の「まざり」

理論は,2つの対立軸の上に展開されました.1つはこのエッセイのタイトルそのものである「科学↔詩」という軸.そしてもう1つは「能動態↔中動態("zero sum"↔"non zero sum")」という軸です.

  • 科学↔詩
  • "πλαν?τη?"↔"vagabond"
  • 共有(みんな)↔孤独(わたし)
  • 普遍(たくさんある)↔特殊(1つだけ)
  • "mind"(知性,頭脳)↔"heart"(感情,心臓)
  • "wonders"(複数形,可算名詞)↔"beauty"(単数,不可算名詞)
  • 理系↔文系
  • 手段↔目的
  • 理論↔実践
  • 推論↔観察
vs
  • 能動態(≒受動態)↔中動態(=受動的能動)
  • 意志↔覚悟
  • 因果律的↔目的論的
  • 微分(≒積分)↔変分(=積分的微分)
  • 微分方程式↔変分原理
  • 人類の文字(表音文字,表語文字,表意文字)↔ヘプタポッドの文字(表義文字)
  • プログラミング↔曼荼羅
  • 時間順序的↔同時把握的
  • 事実確認的↔行為遂行的
  • 論理↔感情
  • 合理↔神秘
  • 主体↔繋がり
  • 近代市民↔遊牧民
  • "zero sum"↔"non zero sum"

この2つの軸は,科学=能動態(="zero sum"),詩=中動態(="non zero sum")と対応づけることが可能です.それは,2017年さくら10月号廣畑君の文章2018年さくら2月号3. Successに書かれた通り,科学は手段を提供し,詩は目的を設定するからです.つまり,2018年さくら7月号8. Action integral & Variational Principle で説明したように,能動態と中動態はそれぞれ,微分方程式と変分原理を通して因果律的世界観と目的論的世界観に対応し,それはそのまま手段と目的に接続されるのです.

手段と目的(因果と目的)を媒介にして,科学↔詩は能動態↔中動態("zero sum"↔"non zero sum")と対応する.だからB-Pは,科学と詩,あるいは能動態と中動態のバランスを考えた,と解釈し得る.

このことは,時間性の問題でもあります.2018年さくら8月号9. Be Preparedで述べた「具体的な場面ではもっぱら能動的であるが,根本的な世界に対する接し方は中動態的である」という言い方は,能動態→科学,中動態→詩と置き換えて「具体的な場面ではもっぱら科学的であるが,根本的な世界に対する接し方は詩的である」としてもそのまま成り立ちます.2018年さくら4月号清水君の文章から言葉を借りれば,科学=能動態はリアルタイムで具体的で意識的,詩=中動態は事後的で抽象的で無意識的なのです.

ところがそれにも関わらず,私は科学↔詩と能動態↔中動態("zero sum"↔"non zero sum")とを区別しました.2018年さくら5月号6. Middle voiceの最後で述べたように,少なくともSF小説『あなたの人生の物語』においては「事態はもう少し複雑」です.そしてこれは,論理的で合理的な科学にも感情とか神秘の要素があること.またその逆に,感情や神秘と親和的な詩にも論理的で合理的な面があること.これらのことを強調するために必要な複雑さなのです.

その複雑さは,科学と詩あるいは能動態と中動態の「バランスをとる」ということだけでは理解できません.科学と詩の「まざり」の中で,自らの考えや行動を決めていくこと.科学と詩を一旦分けた上で整理し,そして再び乳化(emulsification)させること(乳化とは,水と油のような本来混ざらないはずのものをあるやり方で混ぜること.パスタソースを作る際,オリーブオイルとパスタの茹で汁を混ぜ合わせるのが乳化の例です).

『あなたの人生の物語』を,科学↔詩,および,能動態↔中動態("zero sum"↔"non zero sum")という2つの軸で考えると,以下のような2×2=4つの分類ができます(カッコの中には,『あなたの人生の物語』におけるそれぞれの具体例を示します).

  1. 能動態的科学(微分方程式)
  2. 中動態的科学(変分原理)
  3. 能動態的詩(表音文字・表意文字・表語文字)
  4. 中動態的詩(表義文字)

この分類が,まさに科学と詩の「まざり」の複雑さを整理する,1つの方法だったのです.

10.2. 我々がいかに「まざって」いるか

以上のように整理すると,このHPに寄せているローバー隊の原稿において,スカウトも私も,多くのばあい科学と詩の「まざり」について書いていることに気づきます.

例えば2017年さくら8月号9. アインシュタインの思考実験と美意識で紹介した通り,科学の人と思われているアインシュタインは,実際には相対性理論を作る際に,「美意識」という詩に属する能力を最大限発揮しました.それは「物理的な美」と呼ぶべきものでした.科学に詩がまざるのです.

他方,2018年さくら1月号松谷君の文章2018年さくら2月号山根君の文章に書かれているのは,日本では特に詩に属すると思われがちな言語使用が,実は「インチキ臭」く「洗脳テクニック的」であること.つまり言語は,道具として科学的に使いこなすもの,という面を持っていることが示されています.その側面は,アメリカでは小学校の頃から,「国語」の授業の中で論文・レポート・エッセイの書き方を通して子供たちに叩き込まれます.読書感想文のような情緒的な文章ばかり書かせる日本の国語教育からすれば,詩に科学がまざるように見えるでしょう.

そしてこれまでにやってきたように,科学↔詩という対立を他の言葉で言い換えれば,この「まざり」はさらに様々な原稿に見出されます.

2017年さくら4月号3. 「みる」ことでは,以下のように述べました.

観察(あるいは鑑賞)は知識に依ってその豊かさが変わる.ということは,観察の前にまず知識があるということになります.

しかし他方では観察に依って知識を得るということを考えると,知識は観察の後にもあるはずです.

観察と知識がぐるぐる回っているわけです.

またこれに続く2017年さくら4月号4. 科学者にとっての「みる」ことと「はかる」ことでは,以下のようにも述べています.

運動と重力についての理論を発見する過程において,ニュートンの頭の中で実際に起こっていたことは,観察と推論(と知識)が入り混じった試行錯誤であったはずです.

(…)

これはホームズの場合も同じです.事件現場にある様々な情報の中から重要なものと重要でないものとを区別するためには,観察と同時に推論を行わなければいけないはずです.つまり,観察の後に推論あるいは推理が始まるのではなく,観察する時点で推論あるいは推理もまた始まっているのです.

これらの文章で言わんとしていることは,推論(or知識)↔観察の「まざり」です.このような「まざり」の中に,科学の研究や事件の推理は成立しているのです.

2017年さくら10月号廣畑君の文章では,手段↔目的,物質↔精神,ホンネ↔タテマエ,本能↔理性,理系↔文系といった2項対立が問題となっています.前者があまりに優勢になってしまい「まざり」が弱体化している.そのことへの異議申し立てを,文学部の役割についての考察を通して行なっていると解釈できるでしょう.

また,2018年さくら4月号清水君の文章では,手段↔目的,リアルタイム↔事後的,具体↔抽象,意識↔無意識などの「まざり」が話題になっています.ボーイスカウトの訓練においては,この「まざり」こそが重要な意味を持っている.「なぜ山に登るのか?」という問いを,「そこに山があるから」などといった「大喜利」に逃げることなく真っ当に考えることで,その「まざり」の重要性を整理しています.

10.3. B-Pの言葉を批評的に読む

以上のように考えた上で2018年さくら2月号3. SuccessのB-Pの言葉を見返すと,そこにも様々な「まざり」があることが分かります.

例えば,驚異と美("wonders"と"beauty")がまざっています.快楽と幸福("pleasure"と"happiness")がまざっています.頭脳と志("brain"と"ambition")がまざっています.これまでに示してきたように,これらは大雑把に言って,科学と詩のまざりに対応しています.

しかしB-Pの言葉の中で最も重要な「まざり」は,前半で言われている「他人を出し抜いてトップを目指すのではなく,世界を正しく認識し,他人を助けることこそが幸福につながる」ということと,後半で言われている「幸福を得るには,受動的な態度ではなく能動的な態度であらねばならない」ということの「まざり」です.前者は"non zero sum"の世界観,後者は能動態の世界観です.本エッセイの整理に従えば,"non zero sum"は中動態,"zero sum"は能動態に対応するので,B-Pは言葉の前後半で矛盾しています.

「そんな難しく考える必要は無い」という声が聞こえてきます.B-Pは単に「能動的・自発的に他人を助ける立派な人こそが,幸福になれるのだ」と言っているのであって,そこには何の矛盾も無い,と.

その通り,B-Pの言葉を本エッセイのように解釈することは,普通の意味での正しい読みではありません.「捏造」です.しかしその捏造は無価値では無い.無価値では無いどころか,B-Pの言葉を現代に適用するためのクリエイティブな行為なのだ,というのが私の考えです.

先ほど松谷君と山根君の文章に触れてお話ししたことに絡めれば,このような「元の文章=B-Pの言葉の意味を捏造して改変する文章」は,論文のような「科学的に正しい」文書ではなく,かといって読書感想文のような「詩的で情緒的な」文章でもありません.科学的特徴と詩的特徴がまざった文章.このような文章は「批評文」と呼ばれます.2017年さくら12月号14. 2017年ノーベル賞についての連想ゲーム の最後の部分で,「言葉遊びによる連想ゲーム」のことを批評と呼び,「科学的妄想による連想ゲーム」のことをSFと呼びました.そしてそこでは,以下の2項対立をまぜた読み方をしなければ,古典はクリエイティブに読めないと述べました.

  • 科学的思考↔ゲーム的思考
  • 理系的思考↔文系的思考
  • 客観↔主観
  • 手段↔価値

言うまでもなく,これらの2項対立は科学↔詩に重なっています.

さらに付言すれば,これは哲学の本質にも関わります.2017年さくら12月号14. 2017年ノーベル賞についての連想ゲーム でも紹介した哲学者の東浩紀は,その博士論文にして主著の『存在論的、郵便的ージャック・デリダについて』において,哲学を「科学と文学の間にあるもの」として定義しています.だとすれば,科学と詩の「まざり」であるという点において,批評・SF・哲学は同じなのです.

ここまでこれば,B-Pの言葉を文字通り正確に解釈することも,逆に自分流に情緒的に解釈することも,どちらも古典の読み方としてふさわしく無いことが分かっていただけると思います.その2つをまぜた読み方,すなわち批評的な読み方をしなければならないのです.

そしてこれは,2018年さくら5月号岡田君の文章の最後に「読み込む」という言葉で表現されたやり方でもあります.該当する部分を以下に引用しておきましょう.

そこでタモリが行なっていることは、勇み足を恐れずに言えば、「読み込む」ことである。単に街や地形を科学的・客観的に読むのではなく、その背後に歴史や人々の生活を読み込むこと。つまり、自らの主観や感情を対象に投影すること。それが「込む」という言葉の意味だ。

対象を正確に読んだその先に、読み込むという段階がある。「のめり込む」ように読むこと。ボーイスカウトの地形を読むトレーニングは、抽象的な「読む」能力につながり、最後は「読み込む」能力に至る。

B-Pの言葉を批評的に眺めれば,あるいは読み込めば,そこに矛盾を見いだしつつその矛盾を解消するという,回りくどい解釈が可能になります.つまり,"non zero sum"と"zero sum",あるいは,中動態と能動態の「まざり」こそが大事である.そのようにB-Pは主張していると考える.すると"Be prepared"というモットーは,単に中動態的世界観を表しているだけではなく,この「まざり」の考えを表している,ということになるのです.

(つづく)

ローバー隊隊長 渡口要