Rover Crew, 5th Setagaya

Rover Advisor's Essays

Jan. 2019:科学と詩 第11回(第2部第1回)

あけましておめでとうございます.

今回から,「科学と詩」の第2部です.前回までが理論編だとすれば,今回からは実践編のつもりです.抽象化や普遍化は控えめにして,具体例を中心に「科学と詩」にまつわる様々な話題を紹介していこうと思います.

11. 科学は美を破壊するか

B-Pがビクトリア十字勲章を授与され,前年にはアインシュタインが日本を訪れていた1923年,詩人田村隆一が生まれました.田村39歳のときの詩集『言葉のない世界』.その中の「帰途」という詩の冒頭は次のように始まります.

言葉なんかおぼえるんじゃなかった

言葉のない世界

意味が意味にならない世界に生きていたら

どんなによかったか

この詩をどう「よむ」かは各人の自由です,もちろん(詩ですから!).

私はこの詩(および田村の他の詩)を通して,言葉のない世界に憧れ近づきたいと思いながら,しかしその接近を言葉によって行う矛盾を考えたい.しかもその矛盾は,本来世界はただそこにあるだけで記号化などされていないにも関わらず,人間はそれを記号を通して知ろうとしてしまうという意味で,科学者と同じである.つまり科学者が世界(自然)を理解するために記号=科学の言葉を使うこと,典型的には物理学者が自然を理解するために記号=数学を使うことの不思議さについて,2017年さくら8月号8. ニュートンと数理物理学(=数学+物理学?)とは別の角度で考えたいとも思うのです.

「言葉のない世界」に接近する科学者と詩人の2つのアプローチ.その「同じさ」を探るために,以下ではまず「科学は美を破壊するか?」という問いを考えます(田村の問題意識については,次回以降考えます).そうすることで,2018年さくら1月号科学と詩 第1回で述べた科学と詩の「相容れない感じ」を,科学の側から多少挑発的な言い方で壊そうと思うのです.

11.1. キログラム「kg」の定義変更

2018年さくら10月号科学と詩 第10回の最後で,ノーベル物理学賞を予想しました.残念ながら外しましたが,「レーザの革新的な研究と応用」が授賞理由である点で,香取秀俊先生の光格子時計と分野的に近い研究でした.おしい!(実は,ノーベル物理学賞が与えられる研究分野には2年乃至4年の周期で,ある程度のパターンがあります.それを知っていれば,今年はレーザ関連が来そうだと予想できました).

今回のノーベル物理学賞も,2017年さくら12月号14. 2017年ノーベル賞についての連想ゲームで述べたのと同様,人類に「新たな眼」をもたらす研究でした.ここでは説明しませんが,一体どのような意味でレーザ技術が「みる」ことを可能にしたのか,調べてみてください.検索キーワードは「光ピンセット」と「アト秒」です.

ところでノーベル賞予想は外しましたが,そこで述べた質量の単位である「kg」の定義が見直される見通しについては,11月16日にフランスで開催された国際度量衡総会にて予定通り決議されました.2019年5月20日からは,「1kg」の定義が変わることになります(ただし,皆さんの日常生活には何の影響もありません).

歴史的な決議でした.かつては,「ほら,この分銅の質量が1kgだよ」・「この定規の長さが1mだよ」というやり方で,つまり「実物」を使って単位が定義されていました.ところが今回,最後まで実物での定義として残っていた「kg」がプランク定数による定義に変更され,原器(実物)が完全に排除されるのです.

これには様々な意義があります.一つは,ナノテクノロジー等の超精密な計測技術が求められる研究開発分野において,その測定精度が向上することです.皆さんの日常生活では全く気にならない誤差でも,このような科学分野においては問題となり得ます.

他方,もっと思想的な(つまり「詩」的な)意義もあります.それは,平等・公平さに関わっています.

これまでキログラム原器はフランスが所有していました.複製が各国に配布されてはいますが,「kg」の定義は究極的にはフランスにあるオリジナルの原器が担っていた.その状況が今回の定義改定で変わります.大げさに言えば,「特定の国が独占していたキログラムが解放される」のです.

もちろん,新しい定義に基づく「kg」の精密測定を実際に実行出来るのは,科学技術の発展した一部の国に限られます.しかし原理的・理論的には平等・公平になる.そして「原理的・理論的な平等・公平性」というのは大切だろうと思うのです(分かりやすく言えば,キログラム原器を持たない宇宙人とも「kg」の定義が共有出来るようになる,ということです).

以上で「kg」の定義改定の歴史的意義をある程度分かってもらえたと思います.この話題はそれほど盛り上がっていなかったようですが,分かる人には分かる重大な決議だったのです.例えば私の父は,この件に関して私と事前に話していたわけでは無かったにもかかわらず,以下のLINEを国際度量衡総会中に送ってきました.分かる人には分かるその興奮を感じ取っていただければと思います.

要へ 国際度量衡総会で、キログラムがプランク定数で定義される歴史的決議が2時間後に行われる。

今、ノーベル賞授賞者がプランクのビジョンについて講演中。

BIPMで検索せよ。

BIPMのHPのYouTubeに記念講演が4つあり面白い。

来年のノーベル賞は、プランク定数のfixに貢献した者に与えられるかも。

11.2. 檸檬の質量

ところが,です.この「kg」の定義変更に関し,私から見て「趣味の悪い」報道が複数ありました.その中の1つに,東京新聞の2018年11月16日朝刊に掲載された「筆洗」というコラムがあります.「さくら」やボーイスカウトのHP上に「悪い例」として紹介することにやや躊躇いはありますが(もしかしたら関係者の方もいるかもしれません),新聞のコラムですし,「科学と詩」を考える上で格好の題材なので,以下に引用します.

筆洗

憂鬱だった〈私〉は、一個のレモンを手にした時から、幸せを感じる。梶井基次郎の代表作『檸檬』にある有名なくだりだ。〈つまりはこの重さなんだな…この重さはすべての善いものすべての美しいものを重量に換算して来た重さである…〉

鮮やかな黄色と手の中に収まる大きさ、形、手触り、そして高揚した心を思いながら、その重さに想像力を働かせてみる。そんな場面だろうか。何グラムかは知れない。軽くも、とてつもなく重くも思える〈この重さ〉である。

重くなったり、軽くなったり、解釈の余地があってはならない重さの定義が、約百三十年ぶりに変わるのだという。フランスでの国際度量衡総会で「キログラム」の定義変更が諮られる。

変更となれば、日本国キログラム原器は来年、お役御免になるらしい。一メートルや一秒などは、すでに定義に膨大な数字が登場し、人の実感から懸け離れてしまった。

簡単に「原器の質量」で定義されてきたキログラムは残された大物のようだが、極小分野の科学の進展などで、誤差を排除する必要が生じていたという。物理学の「プランク定数」で記述されるそうだが、直感からは懸け離れている。

時代の要請はよく理解できる。が、物理学の言葉で書かれる新定義に、何ともしれないよそよそしさを感じる。少なくともレモンの重さを表現するのには向いていないだろう。

(東京新聞 2018・11・16)

いくつかの論点があろうかと思います.

ある人は,このコラムに何の問題も感じないでしょう.「分かる人には分かる」などという言葉で科学知識についての優位をひけらかし,「人の実感」を嘲笑う.そんな理系の傲慢を撃ち抜くことが,このコラムの目的の一部なのだと,そこまで思う人もいるかもしれません(もちろん,戯画的に誇張しています).

またある人は,「文系の馬鹿がくだらない文章を書いたな」と思う理系であるかもしれません.インターネット上では,このような理系の傲慢が悪目立ちします.

もっと冷静に,「世の中で起こっていることを読者に分かりやすく伝えるのが新聞の使命なはず.にも関わらず,所詮コラムであることを言い訳に,キログラムの定義変更の意義理解から読者を遠ざけることを書くのはいかがなものか」と反応する人もあるでしょう.つまり報道・教育的な見地からの批判です.これには私も同意します.

しかしここで私が言いたいのは,このコラムが文学的・詩的な文章であるとして(梶井基次郎を引用しているのですから,文学的効果を狙っているのは明らかです),科学的に高度な単位改定の話に対する拒否(あるいは嫌悪)が,その文学的・詩的な価値を貶めているということです.

檸檬の〈この重さ〉の親しみやすさに対して,プランク定数による質量の新定義を「よそよそし」いと表現する.この「よそよそしさ」という単語の選択に,文学的センスの良さがあることは確かです.よそよそしいという表現は「上手い」のです.

しかしその上手さは,局所的にみたときの場合です.大域的に,つまり質量の新定義の背景にある理論やその意義と,梶井基次郎の文章の美しさの本質とを想うとき,この2つを組み合わせたこのコラムの手つきは上手いとは言えない.個人的にはグロテスクとさえ感じます.それは,質量の新定義という科学的達成を隔離し,梶井の詩を矮小化する.つまり両方の価値を貶めていて,しかもそのことに著者が気付いていないからです.

そもそも,梶井は第三高等学校(いまの京都大学総合人間学部)理科甲類を卒業し,エンジニアあるいは理科の先生を目指していた理系でした.卒業後に東京帝国大学文学部に進むことになりますが,まさに科学と詩の両方を味わった小説家だったのです.

梶井の文章には,彼が理系であったことが反映されている.同じく理系の,しかも盛岡高等農林学校(いまの岩手大学農学部)に首席入学した宮沢賢治と同様,しばしばなされる指摘です.

しかしそんなあまりに分かりやすい(しかし有効な)反論を繰り出す必要はありません.檸檬を構成する原子・分子のミクロな挙動に想いを馳せつつ,原子・分子1個分の質量誤差には遠く及ばないものの,ミジンコや砂粒の質量程度の誤差でその檸檬の質量を測定してやろうということのロマン.あるいはそんな科学的描写をいくらしようとビクともしない,梶井の書いた詩情の素晴らしさを考えるだけで,科学よりもむしろ詩(文学)に対してこそこのコラムは無礼である.私はそう思うのです.

11.3. ニュートンと虹

さていよいよ,「科学は美を破壊するか」という問いを直接的に考えてみましょう.この問いに答えた何人かの科学者の言葉を追うことで,先ほどの檸檬のコラムがいかに「詩(文学)に対して」無礼であったかが,改めて納得されると思います.

もう何度目になるか分かりませんが,再びニュートンに登場してもらいましょう.ニュートンは重力理論や運動の理論とは別に,光の理論(光学)にも多大な貢献をしました.

光の理論について考える中で,ニュートンは虹という自然現象を解明しました.これに対し,18世紀から19世紀初頭にかけての詩人や画家,いわゆるロマン主義者たちの間にニュートンを批判する人たちがいました.

曰く,

「虹は神秘を奪われた」

「ニュートンは虹をばらばらの色にすることで,虹がもつ詩情を台無しにした」

などなど.

ニュートンのせいで,我々は虹を蝕知できなくなった.物理学という「色眼鏡」を通してしか虹を視れなくなってしまった.要するに,ニュートンが虹の仕組みを明らかにしたのは興ざめな行為だったというわけです.

これに対し,『利己的な遺伝子』の著者として有名な1941年生まれのイギリス人進化生物学者リチャード・ドーキンスは,ロマン主義者たちによるニュートンへの「文学の詩情の破壊者」というレッテル貼りに対し,『虹の解体』の中で

「スペクトルの発見に代表されるニュートンの研究こそは人類の知見を大きく広げることに貢献したのであり,結果として宇宙へのセンス・オブ・ワンダー(sense of wonder)を生み出し,詩情の源泉となる」

と反論しました.

あるいは,1965年のノーベル物理学賞受賞者で,最近話題の量子コンピュータを予言した仕事や『ご冗談でしょう、ファインマンさん』などのエッセイでも有名な,1918年生まれのアメリカ人物理学者リチャード・P・ファインマンも似たようなことを言っています.芸術家の友人に,科学者は花の一部だけを見て冷たく生命のない物質にしてしまう.科学者には花の美は分からない,と責められたファインマンは次のように反論しました.

科学者である私は花の細胞の中で起こっている美しくて複雑な反応や,生態系における美や,進化のプロセスに花が果たす役割の美しさも理解することが出来る.

ファインマンは

「科学の知識は,花を見て楽しくなる気持ちや,なぜだろうと思う気持ち,そして畏怖の念を強めてくれるものなのだ」

と言ったのです.

ドーキンスが言う「センス・オブ・ワンダー」とファインマンが言う「畏怖の念」は,2017年さくら9月号10. アインシュタインの重力で紹介した,アインシュタインの「数学に畏敬の念を抱くようにもなりました」という言葉の「畏敬の念」と同様の感覚だと思います.それは,科学(物理学・生物学・数学…)を深く学ぶことでのみ得られるタイプの「詩情」なのです.

ここまで読んで,さてスカウトの皆はどう思いますか? 科学は美を破壊すると思いますか?

もちろん私はそう思いません.むしろ,少なくない数の人が何故「科学は美を破壊する」と思ってしまうのか.それこそが問題です.これに関して私は,次のように挑発的に意見を述べたいと思います.

もしあなたが,科学的知識によって虹や花の美が破壊されると感じたとすれば,それは以下に述べる2つが原因の幼稚な錯誤に過ぎない.

第1に,あなたの科学についての勉強がまったく中途半端だということ.そのため例えば「虹とは,太陽の光が空気中の水滴によって屈折・反射されるときに,水滴がプリズムの役割をするため光が分解されて,複数色(日本では7色とされる)の帯に見える現象である」という辞書的な説明をただ字面として読んで,「なんか興ざめだ」と判断しているのです.虹という現象の背後にある豊かな科学的知識・数理物理学的知識・数学的構造について深く勉強すれば,そのような判断がいかに軽率であるかが分かるはずです.

第2に,あなたが虹や花に見出していた詩情的な美がまったく表層的だということ.真に優れた詩的感受性やその表現は,科学による対象の解明によって損なわれるものではありません.ニュートンが虹を科学の眼で解き明かしたとしても,虹に関する詩情はビクともしない.もし科学による対象の解明「ていど」のことで詩情が失われたと感じたとすれば,あなたが感じていた詩情は,いかにもそれらしい綺麗な言葉を並べて「なんかいいね」とぼんやり思っている程度のものだったということです.

世界の見方・世界への近づき方には,科学と詩という少なくとも2種類の方法があります.上記「kg」の定義変更についてのコラムやニュートンへの非難者には,この2種の方法についての無知があります.それは,単に2種類のうちの科学の方法についての無知ということではなく,「そもそも(少なくとも)2種類ある」ということについての無知,あるいは鈍感さなのです.

したがって,そのような鈍感な人は「世界の半分」しか見ていないということになります.もちろん,ここで挙げた例とは逆に,科学の見方によってしか世界を見ない人も沢山いるわけです.

11.4. 谷川俊太郎

科学と詩は,それぞれを表層的にしか知らない人にとっては相反するもののように思われがちです.しかし,それらはむしろ互いを刺激しあう関係にあると思うべきです.

アインシュタインがある種の美意識によって一般相対性理論を作ったのは,詩(情)が科学を刺激した好例です.それに対し科学が詩を刺激した好例として,田村と並ぶ日本現代詩の大物,1931年生まれの谷川俊太郎を挙げられます.有名な処女詩集『二十億光年の孤独』に収められた「二十億光年の孤独」を読んだことがある人は多いでしょう.

人類は小さな球の上で

眠り起きそして働き

ときどき火星に仲間を欲しがったりする

火星人は小さな球の上で

何をしてるか 僕は知らない

(或いは ネリリし キルルし ハララしているか)

しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする

それはまったくたしかなことだ

万有引力とは

ひき合う孤独の力である

宇宙はひずんでいる

それ故みんなはもとめ合う

宇宙はどんどん膨らんでゆく

それ故みんなは不安である

二十億光年の孤独に

僕は思わずくしゃみをした

この詩に,ニュートンやアインシュタインの物理学が反映されていることは明らかです.

ただし,谷川の詩はあくまでも詩です.物理学の支配下にはおかれていません.谷川は,物理学的なイメージと詩的繊細さとを,彼のある種あっさりとした筆と感性で見事に結び付けている.宇宙のセンス・オブ・ワンダーが,谷川の詩の透明さの背後に透けて見えているようではありませんか.

谷川の詩には,科学と詩という2種の世界の把握法が「まざって」いるように見えます.そのことが,彼の作品に多くの人が惹きつけられる大きな理由だと私は考えます(「ネリリ」や「キルル」といった言葉の機能については,次回以降で考えます).

* * *

誤解しないで欲しいのは,全ての人が科学と詩のどちらも極めるべきだ,と主張しているわけでは無いということです.

科学と詩の両方を100%極められる人間など,ほんの1部の天才だけでしょう.科学10%・詩10%といったところが普通でしょうし,1流の科学者で科学80%・詩0%の人や,1流の詩人で科学0%・詩80%という人の方が魅力的だったりするかもしれません.

実際,科学10%・詩10%よりも科学80%・詩0%(あるいはその逆)の方が,偉大なことを成し遂げられるでしょう.器用貧乏になっても仕方ありません.1つのことに集中してそのスキルを極めることは素晴らしいことですし,大抵の場合その方がずっと成果があがります.

しかし以上の前提の上で言えば,やはりそれは「世界の半分」なのです.世界の半分を極めることは十分素晴らしい.しかしそれが世界の半分に過ぎないという認識も,同時に持たなければならない.少なくとも,もう半分の世界(の見方)を下らないと切り捨てるような態度は,2018年さくら10月号科学と詩 第10回で述べた,「まざり」を志向してデザインされているボーイスカウト運動のスカウトたち,あるいは「まざり」の中をさまよう存在である"Rover"にはふさわしく無いと思うのです.

(つづく)

ローバー隊隊長 渡口要