Rover Crew, 5th Setagaya

Rover Scout's Essays

Jul. 2018:ボーイスカウトと宗教

ボーイスカウトは、その教育プログラムのデザインの中に「宗教章」や3つの誓いの1つ:「神(仏)と国とに誠を尽くし掟を守ります」があることから分かるとおり、宗教と密接に関わっている。しかし私は、ボーイスカウトから宗教の要素を切り離すべきだと考える。

ボーイスカウトの産みの親であるロバート・べーデン=パウエルの父親は、リベラルな神学者であり、平たく言えば牧師であった。つまり、B-Pは牧師の息子だったのである。

そんな父親の影響があったかどうかは分からないが、ボーイスカウト運動は宗教と近い距離を保っているにも関わらず、いわゆる宗教団体とは一線を画している。つまり、信仰すべき宗教を限定しないリベラルさを持っているのだ。そのあり方には様々な論点が含まれるが、私にはそれは、ボーイスカウトからの宗教切り離しが可能であることを意味しているように思われる。

しかし、切り離しが可能であることと切り離すべきかどうかは別である。なぜ切り離す「べき」なのか、 以下ではその理由の説明を試みる。

そもそものボーイスカウトはじまりの地は、キリスト教を国教とするイギリスである。そんなボーイスカウト運動が、神道や仏教の国である日本にいかにして広まったのか? そのことを、キリスト教の日本への伝来と重ね合わせて考えてみたい。

日本の宗教と言えば神道と仏教である。

仏教は本来、神道やキリスト教における「神」のような信仰対象を持たない。重要なのは「悟り」を開くことである。ところが、時代が進むにつれ悟りを得た人が尊敬を集め、やがて崇拝の対象となって多神教的になっていったのである。中国から日本に仏教の教えが渡った後には、日本古来の神道と混ざりあい、さらに独特の形に変容した。

その後戦国時代中期まで仏教は大きな勢力を保っていたが、ポルトガルなどキリスト教国との貿易を通して、戦国時代後期から江戸時代前期にかけてはキリスト教が日本全国に広がっていった。しかし日本のキリスト教受容においては、政治的な、あるいは社会的な難しさ以上に、思想的な困難がつきまとった。

遠藤周作の歴史小説『沈黙』は、このような思想的困難を、苛烈なキリスト教弾圧が行われていた日本に潜入する若きイエズス会司祭ロドリゴを主人公にして描いている。この作品に出てくる神父たちは、自分たちの「正しい考え方」を日本に教えようとする。「侵略的キリスト教布教」を画策するのだ。しかし、その目論見は多くの失敗を産む。ポルトガルと日本とでは、人々の思想的背景(心の習慣、エートス)が大きく異なるにも関わらず、そのことに対する認識が甘かったのだ。

例えば唯一神デウス(“Deus”、ゴッド“God”、ヤハウェ“Yahweh”)を日本語に訳す時、大日如来に由来する「大日」が最初のうちは用いられてしまった(これは史実である)。上述の通り仏教には信仰対象としての「神」概念は無いので、この翻訳は日本人のキリスト教理解を大きく歪める原因となった。小説の中で、ロドリゴの師であるフェレイラ司祭は言う。

この国は沼地だ。デウス(神)と大日(如来)を混同した日本人は、我々の神を彼ら流に屈折させ、変化させ、別の神につくりあげた

結局、日本にキリスト教が広く深く根付くことは無かった。それは、日本人の思想的背景の中に、抽象的な「超越」への志向が無いからだ。

例えばキリスト教の日曜礼拝やイスラームの1日5回の礼拝のような行動は、日本の宗教ではほとんど行われていない。2018年さくら5月号岡田君の文章でも紹介された梅棹忠夫の『文明の生態史観』には、日本人は「美」を理解することは得意だが「崇高」そのものを把握することは苦手なのではないか、ということが書いてある。このことから考えるに、礼拝という「神=超越=崇高」と直接繋がることを目的とした行動は、日本人には向いていないということではないだろうか。

日本人は、神のような実態の無い抽象的な存在よりも、自然の中の実態の有る具体的な存在の中に神秘を見出し崇拝する傾向がある。神道にしても、今よりも自然の猛威が厳しく人々を襲い、社会も貧しかった時代、人々が危機から逃れるために自然の中にかろうじて「崇高」を見出そうとした産物なのではないか? それも今では、形式的に神社や寺に行ってお賽銭を投じてお願い事をする、いわゆる「お願い宗教」になっている。

『沈黙』より11年前の遠藤周作の2つの小説『白い人・黄色い人』(「白い人」で芥川賞受賞)は、後の『沈黙』や『侍』などにつながる「信仰」のテーマを描いた秀作である。そこで描かれているのは、日本人が何か罪を犯したときの、神にではなく神父や他の人に許しを請おうとするその気質である。

以上で示したように、日本人は根本的に宗教に向かない。また、現代の日本人にとって宗教は必要でもない。さらに言えば、それにも関わらず宗教を我々の生活に取り入れようとするのは、大変なばかりで有益ではない。

遠藤周作は「日本人でありながらキリスト教徒である矛盾」を人生最大のテーマとした。そのテーマはもう少し広げると「現代人でありながら宗教を持つことの矛盾」と抽象化できる。私の考えはシンプルで、単に宗教を持たなければいい。もちろん持ちたい人がいるのは構わないが、それはとどのつまり趣味の問題なのだ。

ボーイスカウトが宗教(例:キリスト教)と強く結びつている限り、その現代人(例:日本人)への普及において足枷が存在することになる。そしてその足枷は、今後ますます重くなっていく。実際、ボーイスカウトはじまりの地イギリスでは、無宗教を自認する人の割合が増加傾向にあるではないか(今や半数に迫る勢い)。

これらのことを考えると、少なくとも日本のボーイスカウトからは宗教を切り離すべきであるし、一般に世界のボーイスカウトの条件からも、宗教の要素は切り離した方が良い。B-Pが牧師の父から受け継いだと想定されるリベラルな考え方で、ボーイスカウトは無宗教をも認めるべきである。そういうところまで、時代は進んでいる。

ボーイスカウトの3つの誓いの1つ目を、微妙な後ろめたさとともに唱えるのはもうごめんだ。

ローバー隊 保科玄樹