ボーイスカウト世田谷第5団 ボーイ隊のホームページ

2018年11月1日(木)

現場に行ってないのに,ジャンボリーについて書く

17NSJが終わって3ヶ月が経とうとしています.ボーイ隊以上のスカウト達がジャンボリーをいかに楽しんだか,このさくらの原稿やボーイ隊のHPにupされている写真などでご存知かと思います.

さてそれらジャンボリーの写真ですが,そのほとんどはローバー隊のスカウトが撮ったものです.そのことの意味について,少し変わったことを書こうと思います.

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今回のジャンボリーにはローバー隊から7名のスカウトが参加しました.ローバー各々のさくら原稿から分かる通り,それぞれに自分の役割を果たし,大会を盛り上げるのに奉仕したのです.隊長の私は何の貢献もしていないので,申し訳ないと思うとともに,ローバースカウト達をとても頼もしく思いました.嬉しくなって,「ローバー隊のHPは文字のみ」という方針だったはずなのに,思わずTOPページに写真を載せてしまいました.感謝しています.ありがとう.

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さてそんなローバーの貢献の中で,多くの写真とともに現地報告をしてくれた大浦君の仕事は素晴らしかった.ボーイ隊のスカウト達に密着して,現場の活き活きとした様子をリアルタイムで伝えてくれた写真の数々.例えば次の1枚を見れば,その「近さ」が分かってもらえると思います.

180803-10_日本ジャンボリー(17NSJ)

大浦君の報告の全体はボーイ隊HPの「レポート」でご覧いただけますが,その8日目(8/10)で神田BS副長が言っているように,最終日になってはじめて大浦君自身が写った写真がupされました.そこではたと気付きます.ほとんど全ての写真には,大浦君が写っていない.当然です.基本的に大浦君が撮影しているのですから.

写真には,撮影者自身が写らない.当たり前のことを言っているようですが,これは重要な認識です.「自撮りはどうなんだ?」と思われるかもしれませんが,自撮りが一般化したのはスマホのインカメラが普及したごく最近のこと.写真は本来的に,被写体をレンズ越しに眺める存在=撮影者自身が写らないという,ある種の「盲点」を持った装置なのです.

ところで,このような写真の特徴は映画にも当てはまります.実はこの特徴を使って人間の「主体」について考えた理論が,20世紀の思想・哲学で流行しました.簡単に言えばそれは,写真や映画をみるとき,単にそこに写っている/映っているものだけを見るのではなく,そこには写っていない/映っていない撮影者=盲点をも「観る」こと.そのような「高度な」鑑賞が出来るようになることと,近代的な「主体」になることを同じだと考える理論です.写真や映画にうつっているものだけしか見ないのは「未熟=子供」である.そこにうつっていないものを「観れる」ようになって初めて「成熟=大人」だとみなす,というわけです.

ということで,スカウトの皆さんには「高度」かつ「成熟した」方法で,ボーイスカウトの活動写真を観て欲しい.そうすれば,どの写真からも撮影者の存在=眼差しを通して撮影者自身の想いが伝わってくるはずです.

大浦君の写真には,スカウトたちの喜怒哀楽が写っています.それはジャンボリー期間中,彼がスカウトたちの表情を確認できる「近さ」で行動を共にしていたからです.まるで「ネタばらし」のようにポツンとupされた8日目(8/10)のバス中の大浦君自身が写った写真を気付きのヒントにして,撮影者に想いを馳せてジャンボリー写真を見返してみてください.

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もう1枚,紹介したい写真があります.ジャンボリー開会式を撮影した次の写真です.

180803-10_日本ジャンボリー(17NSJ)

先ほどの「写真の観方」を実践してみましょう.この写真を撮っているのは誰か? 何故このような写真が撮れたのか? カメラを構えた彼は,このとき何を考えていたのか? 撮影者のことを想像すると,この写真がグッと良いものに見えてこないでしょうか?

この写真は,先ほどの大浦君の写真とは随分違います.スカウト一人一人の顔は認識できません.コントラストが強いため,ステージ上は燃えるように明るく,何が行われているのか分かりません.大浦君の写真が「近さ」を示しているのに対し,この写真からは「遠さ」が感じられるのです.ローバー隊の清水君がこれを撮りました.

大浦君が「参加隊」のリーダーとしてジャンボリーに行ったのと違い,清水君は「奉仕隊」のスタッフでした.どちらもスカウトたちの楽しみをサポートする役目は同じですが,参加隊のリーダーが常に同じ隊のスカウトたちのそばで行動するのに対して,奉仕隊のスタッフはジャンボリーに参加する全スカウトに対する裏方を引き受けます.つまり,奉仕隊のスタッフは参加隊のリーダー以上に地味な,影ながらジャンボリーを支える存在のため,スカウトとの距離は「遠い」のです.

17NSJに参加したローバーのさくら原稿には,「一歩引いた」リーダーあるいはスタッフとしての感想が多いと思います.しかしその一歩引く度合いは,ローバー毎に違います.参加隊ローバーたちが「近い場所でスカウトを助ける様子」を原稿に書いているのに対し,奉仕隊スタッフだった清水君と横山君は「遠い場所からスカウトを見守る様子」を原稿に書いている.各原稿の間に,スカウトとの距離のグラデーションがあるのです.

そう,スカウトの皆を支える多くの人々の貢献には,グラデーションがあります.スカウトへの視線の距離に長短があります.ジャンボリーの開会式を遠くから撮影していた清水君は,2018年さくら9月号彼の文章から言葉を借りれば「(開会式を)売店部の仲間と会場の外から見」て「大いに盛り上がっ」ていた.その様子は,清水君の写真の手前に写っている,おそらく他の奉仕隊スタッフであろうスカウトたちの姿からも想像できます.写真には写っていないカメラのレンズのさらに手前側で,清水君は仲間と「大いに盛り上が」りながら,開会式に参加するたくさんのスカウトたちを見守っていたのです.

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以上のように,2枚の写真からは撮影者である大浦君と清水君の想いが,その眼差しを逆算することで推察できます.カメラは対象(=スカウト)を撮影するだけでなく,同時に撮影者(=ローバー)自身をも「逆」撮影するのです(ちなみにこれは,推理小説や推理漫画などで,犯人が見たであろう景色などから犯人自身の性格等を推理するのにも似ています.最初から犯人が「写って」いたら,それはつまり犯人がすでに判明しているわけですから,推理小説は成立しません.「盲点」としての犯人.より一般に,「盲点」は推理小説の重要な要素です).

そして実は,もう1つ忘れてはいけない眼差しがあります.本稿を読んで写真を観ている皆さん自身の眼差し.つまり,鑑賞者の眼差しです.

写真用紙やディスプレイの外側にいる鑑賞者は17NSJに参加していません.典型例はスカウトの皆の親御さんです.あるいは育成会や団委員の方々の多くも同じでしょう.これら「現場に行かなかった人」は,スカウトからの距離がさらに「遠い」と言ってもよい.つまり17NSJに関しては,参加スカウトからの距離が,

近い←大浦君<清水君<鑑賞者→遠い

という順になっている.レンズの手前の撮影者と写真の外側の鑑賞者を意識することで,被写体=スカウトを取り巻く階層構造がみえてくるわけです.

このように考えると,スカウトあるいはスカウト運動への貢献のグラデーションは,かなり広範囲に及んでいることが分かるでしょう.ボーイスカウト運動が成立しているのは,スカウトを中心とした同心円状に広がる貢献(奉仕)のグラデーション,あるいはスカウトへの眼差しの距離に長短の幅があること,さらに言い換えれば,現場に対する支援に幾層ものレイヤーがあることに拠っているのです.

大浦君と清水君の写真を合わせて鑑賞すると,現場への距離感の違いを通して,ボーイスカウトが何重もの奉仕の輪に囲まれていることがみえてきます.特に清水君の写真は遠景なため,このことが分かりやすく現れているのです.

ボーイスカウト運動はたしかにそうなっている

言葉では表しきれないこの感覚(世界把握,「触知」)を,写真鑑賞によって体験して貰えればと思っています.

RS隊隊長 渡口

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News

世田谷第5団機関誌「さくら」4・5月合併号が公開されました.

↑2018年りふれっしゅ村鉢ヶ崎@石川県珠洲市で開催した「日本ジャンボリー(17NSJ)」現地報告を公開しました.

↑2017年長野県長者の森で開催した65周年キャンポリー紹介動画を公開しました.

↑2018年新潟県赤倉温泉で開催したBSスキー訓練2018紹介動画を公開しました.

を用意しました.

↑2012年山梨県四尾連湖で開催した60周年キャンポリー紹介動画を公開しました.

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